これは、ある日私が、お客様に日本刀を振り上げられたときの話です。
深夜、ホテルの上階で作業をしていた私に、フロントスタッフからの電話が入ったのです。急いで一階まで降りて行くと、そこには190センチはあろうかという大男が私を待ち構えていました。一目見れば、怒気が毛穴からもうもうと噴き出しているのがわかります。
この方は、ある暴力団の組員。私はその素性を知っていたため、一度宿泊をお断りしたことがあったのです。
ところが、それに激高して、再び深夜のフロントに押しかけてきたというわけです。
「俺がヤクザだからかよ。ああ、差別かよ、おい。客に向かって失礼だろうが、オラ」
「申し訳ありません。お泊めすることはできないのです」
私は、どんなに脅かされても「NO」を繰り返しました。
エレベータホールに仁王立ちになった男の眼だけが異様に光り、みるみるそれが血走っていきます。嫌な予感がしました。
男が茶色い紙袋からすらりと出したのは、抜き身の日本刀!
悲鳴さえあげることができず、スタッフは息を飲んで見守っていました。
驚きのあまりブルブル震えて泣いている者もいます。
私は、警察を呼ぶこともできたでしょう。
そのまま、エレベータにとって返して逃げ込むこともできたかもしれません。
なのに、私は無我夢中で男の前に一歩踏み出していました。
ちょうど男の懐に入るような具合です。
「お客様に、私は殺せません!」
意表をつかれたのは男のほうです。
「オイ。怖くねえのかよ……、俺が怖くねえのかよ……」
本当は怖いです。足元は震えていました。
「なんで、お前怖がらねえんだよ」
とっさに、私はこう答えていました。
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「お客様に、私は殺せません!」
ヤクザとしてみれば「はあ?」という感じでしょう。
あとから聞けば吹きだすようなセリフかもしれません。
でも、私は必死。ドラマだとしたら、あまりにもクサいセリフを私は再び大真面目に叫んでいました。
「お客様に、私は殺せませんっ!」
一瞬の間があって、男の表情がふっと緩みます。
「支配人さん、……あんたすげぇなあ」
それから数時間、私は私に心を許したその方の身の上話をお聞きしました。
聞けば、組を破門になったばかりで自暴自棄になっていたそうです。
不安や焦燥、孤独感が、宿泊をお断りしたことをきっかけに怒りに変わってしまったのでしょう。落ち着いたようでしたので、私は新宿駅まで歩いて送っていき、そこでお別れしました。
「がんばってくださいね」
「おう、支配人も体に気をつけてな」
私どものホテルは、ヤクザをお泊めすることはできません。
でも、一歩仕事を離れれば、私たちは人間同志なのです。
きっとその男性は長い間、脅かしただけでおびえ、なんでも言うことを聞く人々の姿を見てきたのでしょう。
いつしかそれが当たり前のようになってしまい、恫喝が一般社会との「コミュニケーション」の一つになってしまったのだと思います。
しかし一方で、力で脅せば脅すほど人は離れていくのも道理です。
彼も力による無理を重ねていくうちに、社会からの疎外感を味わっていたのでしょう。
加えて、任侠の世界からも破門され、彼は行き場を失ったのです。
そこへ、過剰に怖がりもせず、素のままで対応した私が現れた。彼も心のどこかで、ほっとした気持ちになったのだろうと思います。