ケータイ電話のおまけとして組込まればらまかれた野良カメラの蔓延以来「肖像権」という言葉を援用したりプライバシーに関する考えの拡張として「撮られない権利」ということが言われ、例えば仕事で街の写真を撮るときでも「個人が特定できないように」という曖昧なモラルがしかれ、ヒトの暮らしが写真に写ることがなくなって来た。一方で素人の撮るピースサインの酔っぱらいの群れや乱痴気騒ぎの写真は山のように撮られるようになり、もしこの瞬間に歴史が断絶して再びまた奇跡的に文明が起こり文字や写真を解する生き物がこの天体の上に跋扈するようになり残された写真を見ることがあったとしたら、無人の街の景色(たまに写っているヒトはぶれていたり顔に不思議なモザイク処理)とばか騒ぎしている酔っぱらいの写真以外ないこの時代のことをどう解釈したりするのだろうという思いはある。 ただまぁ。こうして闇雲に群衆を撮っていても通念としての言葉に照らせば単なるヘンタイでしかない 撮らせてくださいと頼んで。思い切りカメラを意識してもらって撮ればなにかに通ずるところはあるのかなと最近思っている。思い切り構えてもらえば構えて構えてそれでも隠しきれないものが出て来てそれが本当の意味での自然な姿になるのではないかという。たしか榎本敏雄さんがそんなことを書いていたのを高校生の頃に読んだ覚えがある(詳細失念)